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Nov. 2008 |
大がたカーキャリー |
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小学校1年生になる長男の凜之助(りんのすけ)が、国語の授業で習った作文を参考にして、はたらく自動車をテーマにした作文を書いていました。
親ばか承知ですが、なかなか良い文章を書くなぁ、とびっくりしたので、本人の了承を得て、記念に以下全文掲載することにしました。
「大がたカーキャリー」
カーキャリーははんばいてんからじどう車こうじょうへ車をはこぶじどう車です。ですからたくさんの車がはいる大きいへやがあります。また、車はいるときいたのようなものがでてきて、そのいたに一だいめ二だいめはバックしてあとの四だいはまえむきで入ります。たくさんの車をいれおわったらいたのようなもので車をそとに出ないようにいたでふたをします。カーキャリーは一だいのりや四だいのりもありなかには大がたトラックをはこぶ六だいづみのカーキャリーもあります。カーキャリーは小さくてからだがおもいのではんばいてんからじどう車こうじょうへ車をはこぶときに一じかんぐらいかかります。大がたは五じかんぐらいかかります。大がたトラックをはこぶカーキャリーは十じかんくらいかかるときがあります。カーキャリーは車がかべにぶつかってきずがつかないようにしんちょうにしゅっぱつします。こんちゅうのようにタイヤが六ぽんもあるので車たいがものすごく大きいです。
(ながまつ りんのすけ)
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Jul. 2007 |
柏崎弁当プロジェクトについて |
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【第4報】 (8/6)
弁当プロジェクトが、柏崎日報に取り上げられました。
http://www.kisnet.or.jp/nippo/nippo-2007-08-04-4.html
【第3報】 (8/4)
昨日、柏崎鮮魚商組合理事長から電話を頂き、次のような内容についてご報告を頂きましたので、参考までに皆様にもお知らせいたします。
1)8月1日に決起集会を実施。全組合員30社強のうち、集会に出席したほぼ全社の20社が協力してくれることになった。
2)明後日頃から2500食の弁当が受注できることになった。現在5000食が供給可能な体制である(先日1万5千食と報道されたのは、鮮魚商組合だけでなくレストランやその他の飲食業組合と連携した場合の最大見込み数だそうです。)
3)現在の受注先はガス会社、電力会社などのライフライン復旧のための応援職員向けである。
4)被災者向けの弁当については、現在自衛隊が炊き出しを行っているとのことで、それが終了し次第、地元発注に切り替える方向性だということ。
(すでに自衛隊が原料を発注した分については取りやめることが出来ないためだそうです。)
5)マスコミの注目も集めているようで、すでにNHK,毎日新聞、読売新聞、新潟日報、柏崎日報などの取材があったそうです。
6)最初は供給可能個数を少なめに申告していた業者も、最近は「もっとこちらに回してほしい」というなど、弁当供給に意欲的になっている。
やはり、地元の業者でこれだけ作れるということを誰も思っていなかったらしく、ライフライン業者らが長岡などの業者と契約していたものを、理事長が熱心に営業して、仕事を取ってきたそうです。非常にうまくいっている、いい知恵を教えてくれてありがとう、と感謝して頂きました。
今回の事例で私も改めて学んだことは、地元の小規模な商店や企業であっても、 既存の組合や社会的組織による効果的な調整と窓口一本化によって、大規模な需要に対応できるということです。最近はどの自治体も物資調達協定を大規模小売店と締結していますが、個人事業も連携すれば大きな力を発揮できるということがわかりました。そしてそれが地域経済を守り、地元に復興の希望を与えています。
こうした取り組みを可能にする水平的な社会関係を私たちのプロジェクトでは「災害リスクガバナンス」と呼び、その一般化と防災政策への位置づけを目指しているところです。まだ緒についたばかりですが、引き続き現場の動きに注目しながら、今後の展開を目指したいと考えています。
【第2報】 (7/28)
先日、柏崎の鮮魚商組合による弁当プロジェクトについてご報告を差し上げましたが、先ほどNHKのBSニュースで、柏崎鮮魚商組合として弁当15,000食を供給 する体制が出来たという報道がありました。
入れ知恵をしたものとして、非常にうれしく思います。本当に最初の知恵だけで、後は地元の判断だと放置していたのですが。。。。
これから現地で活動を展開される皆様、ぜひ、昼食や夕食を地元の業者に依頼することを検討してみてください。15,000食といえば被災者向けの弁当を遙かに上回る供給能力なので、きっと対応できるのではないかと思います。ご関心のある方は永松までご連絡ください。(注:その後調べたら、実際にはこの時点では5000食の体制しか出来ておらず、将来的には関連業者を含めて15,000食まで供給可能に出来るだろう、ということだったそうです。)
鮮魚商組合は、柏崎魚市場に出入りする業者の組合です。柏崎の魚は放射能汚染の風評被害に悩まされています。被災者やボランティアが彼らの弁当を食して復興に向けてがんばっていることが報道されれば、風評被害を吹き飛ばす何よりのいい材料になるはずです。
また、小千谷で展開された弁当プロジェクトが柏崎でも動き始めたということはすばらしい事実だと思います。地域社会に内在する社会関係資本を活用した災害対応は、単に小千谷の偶然ではなかったということです。
適切な知恵と助言さえあれば、出来るんですね!
【第1報】 (7/19)
本日、小千谷の「弁当プロジェクト」のメンバーの一人である、(株)魚沼水産の常務理事と柏崎市に行ってきました。
柏崎魚市場社長、柏崎鮮魚商組合理事長、事務局長らと、被災者向け弁当の地元供給について、小千谷の「弁当プロジェクト」の取り組みについて紹介してきました。
柏崎の人々は皆乗り気でした。理事長も「こんなことを小千谷でやっていたなんて目から鱗だ。ぜひ柏崎でもやりたい」とおっしゃっていました。 ただ、現段階ではいくつかの問題があります。
・被災事業所の多くは自宅片付け等で頭がいっぱいで、まだ将来の仕事のことまで考えられていないということ、
・現実問題として、どれだけの業者が協力して、どれだけの弁当を作れるかわからないということ、
・また、水道の復旧はプロジェクト開始の大前提となるが、それがいつになるかわからないということ(今日の午後には25日頃という情報が出たようですが)
・米飯をどうするかということ(小千谷の時には地元に越後製菓の工場があったため、大量の炊飯が可能であったが、柏崎にはない)
具体的な動きになるためには、これらの問題をクリヤーしなければならず、もう少し時間が必要かと思います。
とはいえ、今回は単に日銭を稼ぐという意味だけではなく、前述の風評被害を吹き飛ばすためにも、このプロジェクトの意味は大きいと思っています。
地元の動きが本格化したら、再び現地入りしたいと考えています。
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Apr. 2007 |
単身赴任に思う(4月19日神戸新聞・随想より) |
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4月から神戸を離れ、つくばにある防災科学技術研究所にて勤務することになった。正式に決まったのが3月半ばだったので、家族の引っ越しは間に合わず現在単身赴任中である。
1Kのアパート暮らしはまるで学生時代に戻ったよう。筑波大学の学生が多い地域でもあり、近所の食堂で夕食を取ると恐ろしいほど山盛りのライスが出てくる。おかずだけでも相当な量であり、お腹周りが気になる我が身にはちょっと辛いのだが、食事中の話し相手もなく、黙々と食べてしまう自分が憎らしい。
単身赴任生活は家族サービスから解放され、溜まった仕事をさばく良い機会と思っていたが、意外と家事に時間が取られ、期待したほどでもない。大阪の自宅では次男のインフルエンザが妻にも感染して大変だという。母が手伝ってくれているとはいえ、何も出来ない自分がもどかしい。
そういえば、7年前に他界した父も、私が幼い頃北九州の実家を離れ単身赴任をしていた。ある時、赴任先の地元紙の読者投書欄で「単身赴任に思う」という特集が組まれた。父はここに「単身赴任も悪くない」という趣旨の文章を投稿し、掲載された。「皆、寂しいとか辛いとかしか書かんやろうけ、あえて逆のことを書いちゃろうち思うた」と、鼻高々に戦略勝ちであることを自慢していた。
その作戦は正しかったと思う。彼が生涯で書いた文章で、活字となって公に残っているものは、多分この短いエッセイだけである。そして今、改めてこの文章を思い返すと、父は本当は単身赴任生活を寂しいと感じていたからこそ、あえて否定的な文章を書いたのではないか、と思ってしまう。明確な根拠はないが、こんな想像をしていると少し父に近づけたような気がするのである。 |
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Apr. 2007 |
男が厨房に立つ理由(4月3日神戸新聞・随想より) |
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自慢ではないが、家事にはかなり協力的な方だと言われる。得意分野は料理。最近は母が手伝いに来てくれているので機会はぐっと減ったが、それでも週末の料理は私の仕事である。保育所の保護者会などでそういう話をすると、奥様方は「えーっ」と驚きの声を上げ、「いいなぁ」と羨望のため息をもらす。
奥様方にとって炊事は相当な重労働のようだ。洗濯のようにまとめてやるわけにはいかない。毎日三食必要である。栄養にも気を遣わねばならないし、家計にも配慮しなければならない。後片づけも大変である。
しかし私はそんなことはほとんど気にしない。私が炊事をするのは、その日の酒に合ったものを食べたいという全くの自己都合である。だから料理をすることは苦ではなく、むしろ楽しみですらある。
そもそも、妻に作ってもらうと、まずかったとしても文句が言えないではないか。新婚一年目にウロコのついたままのアジの丸焼きが出てきた。焼酎のアテに期待していたので一瞬躊躇したが思い切って食べた。口の中に入れた瞬間はかりっとして香ばしいのだが、その直後から口内のいたるところにまとわりつく独特の食感は今でも忘れられない。
妻の名誉のために述べると、妻の料理が私よりも下手だと言いたいのでもない。私はアンコウの肝を湯がいて食べて、あまりの生臭さに閉口したことがある。酒蒸しという方法があることを後から知った。五十歩百歩である。
結局の所、食い物に関しては、自分の失敗は許せるが、他人の失敗は許せないのである。決して美しい話でもないのだが、世間では働く妻を支える理想的な夫として評判だそうなので、あえてそれは否定しないことにしている。 |
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Mar. 2007 |
遵之助の誕生祝い |
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本日、遵之助の誕生祝いに、同僚から立派な印鑑を頂きました。皆様ありがとうございます。
オリジナル出生届とともに、凛之助(左)と伸吾(中)と廣之助(右)の4人で記念撮影。
凛之助は、遵之助の出生届がうらやましかったようで、この撮影前に一生懸命自己紹介の文章を書いていました。 (3月26日)
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Mar. 2007 |
災害対応と情報(3月19日神戸新聞夕刊「随想」より) |
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先日、某政令市の幹部職員を対象とした災害時の意思決定訓練に参加した。この訓練では、市内のある地域が梅雨前線により日雨量が300ミリを越える(これは相当な雨量である)事態を想定しており、どのタイミングで対策本部が避難勧告を出すかが一つのポイントであった。ところが、あるグループは一向に避難勧告を出す気配がない。聞くと「現地の状況が全くわからないから判断しようがありません」と口々に答える。そのうち、崖崩れなどの被害情報が入ってくる。あわてて避難勧告の準備をするが、時すでに遅し。ある住宅街に土石流が発生し、女性1人が死亡との情報が入る。典型的な失敗パターンである。
「どのような情報があれば避難勧告を決断できたのですか?」反省会でこう質問したが、誰も答えられない。判断に必要な情報が欠けていたのであれば、例えば「避難所や避難路が安全か確認せよ」など具体的な指示が出せるはずである。「情報がないから判断できない」というのは言い訳に過ぎず、実際は思考停止しているのである。
このグループの過ちをもう一つ。現地で雨が止んだという情報が入り、追加で出すはずだった避難勧告を取り下げてしまった。しかしまだ大雨洪水警報は解除されておらず、また降る可能性は十分にあった。しかも地盤はまだ雨でゆるんだままである。これは逆に目先の情報に振り回されている典型である。災害対応には適切な情報が必要なことは言うまでもないが、それ以前に重要なのは「市民の安全を守る」ための対策を立てる論理である。論理無き対応は場当たり的で一貫性を欠く。当たり前のことなのだがこれが実は一番難しい。 |
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Mar. 2007 |
グローバル経済と災害復興 (3月1日神戸新聞夕刊「随想」より) |
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私の専門の一つは災害からの経済復興である。しかし、「神戸の経済復興はどうすれば良かったのですか?」と問われると、正直、回答に窮する部分が少なくない。あまりにも当時の状況が悪すぎたと思う。例えば神戸の地場産業だったケミカルシューズは中国製品に押され、生産高は震災前から低迷を続けていた。1997年のアジア通貨危機は、神戸港からの輸出を低下させ、復興途上の神戸港に決定的な打撃を与えた。災害はローカルだが、経済はグローバルに活動する。一地方の復興政策でこうした趨勢を逆転させることはまず不可能であっただろう。
ところが、2004年の新潟県中越地震の経済復興過程を調べると、グローバル化について全く違った印象を持つ。中越地方にはその地域に固有の伝統的な産業が多く、それらは地震後も元気なのである。先日も現地の行政職員からニシキゴイの養殖について話を聞いた。小千谷の養鯉業者の看板は英語で書いてある。小千谷のニシキゴイは世界的にも有名で、シーズンには世界中からバイヤーが駆け付ける。彼らは購入したニシキゴイの写真をインターネットで配信し、世界中の愛好家に販売する。地震による被害は大きかったが、営業再開後も変わらずたくさんのバイヤーが世界から訪れているという。これもグローバル化の一つのかたちである。
つまりグローバル化に翻弄されるのではなく、逆にそれを利用して地域固有の価値を発信するしたたかさが大切なのだ。中越のある被災者はこう言った。「我々が伝統を守っていると思っていたが、実は我々が伝統に守られているのだ」と。こうした発想を災害が起こる前から大切にしたいものである。 |
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Feb.2007 |
私はよく物をなくす(2月14日神戸新聞夕刊「随想」より) |
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私はよく物をなくす。筆記具などは使い切ったためしがない。いざ、会議でメモを取ろうと思っても書くものがない。電話中にメモをしたくても、ない。とりあえず人から借りたりするが、たいていそのまま胸ポケットに入れて帰るから、手元にはいつも筆記具がない。当然ながら、自宅には大量のボールペンが堆積することになる。妻はなぜボールペンが毎日増えるのか不思議がっていた。私もこれでは不便なので、ある程度ボールペンが自宅に溜まったら、職場にまとめて持って来ることにした。これは、紛失癖が無事解決した希有な例である。
名刺入れも突如として消える。定期券や免許証とセットにしているので、これを無くすと始末が悪い。免許証はここ数年で2回再発行した。先月はついに財布も無くした。近所のスーパーで買い物した時に落としていたらしい。最近は妻も大事な物は私に持たせない。当然であろう。そもそも私は自分のことすら信用していない。携帯電話がないことに気付いて家に引き返したら、自分でカバンの中に入れていたということは日常茶飯事である。
先日5才の息子をつれて近所のショッピングセンターに行った。帰りの電車で、彼の宝物のゲームカードが無いことに気付く。慌てて取りに戻ったら、幸いにも見つけることが出来た。安堵して店内をぷらぷらしていたら、今度は息子が見あたらない。店内アナウンスも依頼したが、見つからない。さすがに心配になった頃、「駅で保護しています」と店に連絡があったことを知らされた。私が先に帰ったと思い、駅まで追っかけていたのである。彼は怒られるのではないかとしばらく神妙な顔つきだったが、帰宅して妻に怒られたのは私の方であった。 |
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Feb. 2007 |
「雪かき道場」に参加しました。(中越復興市民会議・特別レポート) |
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2月3日に小千谷市塩谷地区で開催された、「雪かき道場」。災害復興を考える上で大変示唆深いイベントでした。雪が少ない今年で開催が危ぶまれたそうですが、前日にまとまった降雪があり、しかも当日は快晴。絶好のコンディションでした。
この企画の発端に、平成18年豪雪時にボランティアが役に立たなかったことの反省があったと聞きました。過疎化の進む地域にボランティアを活用しようという発想はそれ自体大変興味深く、マスコミでの報道もそういった観点からが多いようでした。ただ、実際に現場を見させてもらった感想は、むしろ別の点にも大きな意義があるように思いました。
(1)雪かきは地域の誇るべき技術であり、文化である。
上村先生を中心として編集されたテキストでは、雪かきの技術に科学的な根拠が与えられています。雪かきの技術が、出来る限り安全に、かつ効率的に雪かきを行うために人々によって積み重ねられてきた知恵だということが分かります。その背景にはきっと多くの犠牲となった命もあったことでしょう。そのなかで編み出されてきた先人の知恵に敬服しました。地元の人も改めて読んで「へー」と頷いていましたが、きっと彼らもそんなすごい知恵だということを気付かずにいたのではないでしょうか。そこに気付いたことは雪国に暮らすものとしての「誇り」を彼らに与えたに違いないと思いました。
(2)講師は地元の人。教えて元気になる。
通常、こういった講座をやる場合講師の確保が大変なのですが、地元では当たり前の技術なのですから、講師は地元のおじさんたちが担当します。普通のおじさんたちに見えますが、このときは立派な師範代。軽々と雪かきをする姿は単純に「すごいなー」と尊敬します。
実習場所までの道脇の牛舎の外に、闘牛用の牛がつながれていました。私を含め静岡からきた受講生は、その牛の周りでしばし牛を眺め、その鋭い目つきにおびえながら写真を撮っていると、所有者のおじさんが誇らしげに牛に飾りをつけてくれたりします。そんなことをして時間を食っていると別の講師のおじさんから「何を遊んでるんだー、早くやるぞー」と叱られて一同大笑い。思うに、牛を牛舎から出していたのは、きっと遠方から来た我々へのサービスだったのでしょう。
(3)雪かきを通じて地域の文化や価値観を発信する。
そんなこともあったりして、実は、学ぶのは雪かきだけではないのです。塩谷では、昔囲炉裏がどこの家にもあって、薪は所有している山林から調達していたことだとか。昔はよその集落からあの峠を越えて学校に通ってきていたとか、そんな会話が自然に出てきます。驚いたのは、地元の方が雪の層を見て「昨日はこれだけ積もった」と教えてくれたことです。我々素人には同じ雪に見えるのですが、言われてみれば、ある深さで雪質が確かに変わっています。こんなふうにして、雪国で暮らすということの価値を、少しだけですが共感できたような気がします。遠くに越後山脈を眺め、眼下に広がる真っ白な銀世界の美しさは神戸に戻ってきた私の心に今でも輝いています。
こんなふうに、雪かき道場は、単に豪雪時にボランティアに力になってもらうことだけが目的ではなく、過疎化に悩む豪雪地域の人々が「元気になる」しかけを巧妙に含めていることに感嘆しました。自分たちの地域に誇りを持ち、全国に発信することで人は元気になれるのだということは、お金の問題に矮小化されがちな復興の議論にとっても大変示唆に富む活動だと思います。
こちらのサイトでも読めます(中越復興市民会議のサイトへ) |
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Jan. 2007 |
知識の手渡し(1月29日神戸新聞夕刊「随想」より) |
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先日、広島市内の病院のある助産師の方から、便箋4枚に渡る礼状を頂いた。
たいそうなことをしたわけではない。「広島市内のどこにどれだけの津波被害が生じるのかを知りたい」との相談があったので、「被害想定は県や市のホームページで見ることができます」と答え、広島市の防災担当職員を紹介した。たったそれだけのことである。
手紙によれば、詳しい被害想定は現在県で検討中ということで、期待した情報は残念ながら現時点では得られなかったそうだが、「病院の防災物資が現在地下に置いてあるので、保管場所を見直す必要があると思い、病院に意見を上申した」とのこと。もしこれがきっかけで患者さんたちの安全が守られるかもしれないと思うと、些細な知識を手渡しただけなのに、なんだかとっても嬉しくなる。
そういえば、2004年12月のインド洋大津波を思い出す。引き波から始まった地域の中には、それが津波の予兆だということを知らず、干上がった海で遊んでいるうちに波に呑まれた人々が少なくなかった。ある被災者が「なぜ日本はもっと早く我々に教えてくれなかったのですか」と漏らしたという。それを聞いた大学生たちが、途上国に出かけていってこうした防災知識を広めるボランティア活動を行っている。物心ついた時から携帯電話やインターネットを当然のように使う彼らが、あえて現地で知識を手渡しする活動に夢中になることに新鮮な感動を覚える。たぶん彼らも私と同じ喜びを感じるのだろう。与えた知識が役にたったから嬉しいというよりは、相手のやりたいことに賛同し、その実現に関われたことが嬉しいのだ。
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Jan. 2007 |
原爆と震災(1月12日神戸新聞夕刊「随想」より) |
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「あんたは(倒壊した自宅から)出られて良かったね、というのが姉の最期の言葉でした。せめて火が回る前に死んでいてほしい。もし生きたまま姉が火に呑まれていたらと思うと今でも苦しくなります」
昨年、広島で聞いた被爆者の言葉である。仕事柄、阪神・淡路大震災の被災者の声は幾度と聞いたが、被爆者の話を生で聞くのは初めての体験だった。想像を上回る悲惨な話に胸が締め付けられつつも、震災被災者との同質性を感じずにはいられなかった。大切な家族や友人、幸せな生活が一瞬にして奪われたことへの行き場の無い怒りと喪失感、自分が生き残ったことに対する罪悪感、被爆経験がない人々との温度差、孤独感など、神戸でも聞き覚えのある話が少なくなかった。思わずはっとした。
ヒロシマ・ナガサキの教訓は、と問われると、私たちは躊躇なく「戦争反対」と答えるだろう。阪神・淡路大震災の教訓はどうだろうか。漠としているがやはり「防災」ということか。こうした「教訓」の差異が、自分の中でなんとなく戦争と自然災害とは異質のものだという認識を作っていたように思う。しかし考えてみればこれらは対策の違いに過ぎない。根本的には、被爆体験も被災体験も一人一人の人間が安全に尊厳をもって暮らせることの大切さを訴えているのだ。災害や事故から「教訓」を求めることは大事だが、「教訓」だけですべてを理解したつもりになることは慎まなければならない。
筆者が所属する人と防災未来センターは、震災の教訓を国内外に発信するという使命を与えられている。広島で私が得たような衝撃を、どれだけ我々は来館者に伝えられているのだろうか。まもなく震災から12年。自問は続く。 |
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Jan. 2007 |
第3子誕生! |
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わが家に第3子が誕生しました。4160g(!)の男子です。予定日より5日早かったのですが、私が職場にいる間に陣痛、入院、出産のすべてが終わっていました。妻の顔は朝とほとんど変わらず、産院にいなければ、出産が済んだことすらわからなかったと思います。
このサイズになると、抱いたらずしりと来ます。鳴き声もかなり低音で響いてきます。親戚一同誰からも「ちっちゃくてかわいいね」という感想は出てきません。 まだおっぱいを呑むのは上手ではないようです。(体格の割に口が小さい!)
なお、遵之助(じゅんのすけ)と命名しました。「遵」には命令やルールを守る、という意味があります。単に目上の人のいいつけとか、既存のルールを守るということではなく、万物の真理や人間としての正義から外れることなく生きて欲しいという思いを込めました。(3番目の名付けにはそれほど選択肢がなかったことも事実ですが、、、) |
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Feb. 2006 |
こどもは世間からの預かりもの |
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平成17年度の保護者会活動ももう終盤。活動を通じて、様々な保護者の方々と出会い、語らい、多くの子どもたちと遊ぶ機会がありました。「みーんなルンルン(注1)」を終えた翌日、そんなことを振り返りながら、たまたま電車でめくった本で次のような文章に出会いました。
、、、先輩に子供が出来たので「おめでとうございます。授かりものですね」と言ったら、「違う。子供は世間からの預かりものなのだ」と言われました。二十数年間世間から預かって、世間にお返しする。そして、育て方がよかったかどうかということを、今度は死ぬまで世間から確かめられるのだ、と。(中略)自分の手から離れた子供が世間で評価されていくのをじっと耐えて見守らなくてはいけない。そういうことも、子供をもってよかったと思うことのひとつです。
(佐々木毅・金泰昌編「公共哲学7:中間集団が開く公共性」東京大学出版会、P104)
私はなるほどと思いました。今の子どもたちは、例えばある子は看護士として、ある子は警察官として、次の社会を担う人材として育って行くはずです。しかし、たとえば耐震設計を偽装するような悪者に育ってしまったとしたら、社会に大きな迷惑をかけてしまうことになります。このように、「我が家の子育て」は決して我が家だけの問題では済まないひろがりを持っているのです。
私たちは、保育所に子どもたちを「預けている」と言いますが、この文章が言うように実は私たちが世間から「預かっている」のかもしれません。それがたまたま我が子だった、そう考えてみたら、他の子たちにも関心を持ち、その成長に積極的に関わるということは、とっても自然なこと、当然なことに思えてこないでしょうか?
すべての親がすべての子の健やかな成長を願い、お互いに支え合う。そんな育児がこの保育所で実現できたらいいなぁ、と今年度の活動の終盤に考えたのでした。
(注1:生活発表会のこと)
(大阪市立加島第一保育所 保護者会便り Vol.7 , 2006年2月号より) |
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子どもたちと新品LUMIXの試し撮り。真ん中が長男の凛之助(りんのすけ)、右が次男の廣之助(こうのすけ) |
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Feb. 2006 |
原点回帰 |
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10年ぶりに参加した中央大学今村ゼミOB会。当初から楽しみではあったか、自分の予想以上に楽しいひとときを過ごすことが出来た。楽しい、という言葉よりもむしろ感動的と言った方が良いかもしれない。
今村ゼミは行政学のゼミである。しかし私は卒業してから経済学の研究に身を投じ、その分野で学位を取った。防災研究に身を投じてからは、土木工学や建築学、都市計画学、社会学方面の研究者との交流が増え、「実践的研究」というミッションのもと、極めて現場に近いところで研究を進めていた。行政学など現在の自分の研究においてはほとんど関係ないし、また関係があったとしても、それはもはや昔ちょっとかじった程度のものに過ぎず、結局のところ今村ゼミは自分の人生の通過点、思い出の一つとしか正直思っていなかった。
しかしながら、地方自治体の防災行政に深く関わる仕事を初めてから、かつては抽象的な概念整理に終始した、非現実的な学問とさえ思った行政学が、自治体行政を理解し、解決への処方箋を描くための分析道具として光り輝いて見えるようになった。地域防災計画に関する、行政学のまねごと論文を執筆したのもこれがきっかけである。
この論文の執筆は、自分にとっての現在の仕事の意味を再確認させてくれる大きなきっかけともなった。もちろん一義的には、災害に強い社会を構築するための研究なのであるが、根本的には防災というフィールドを題材として「公共性とは何か」を探求しているのだ。経済学のモデル分析のようなエレガントさは無く、政治学のような切れ味は無いけれども、防災研究を通じて出会った「公共性」には、生身の人間の「臭い」がある。失われた命を前に涙する人々や、被災地の復興のために粉骨砕身の努力をする人々、次の災害被害の軽減のために防災の大切さを人々に説き続ける人々、、、その誰もが自分にとっての「公共性」を持ち、時には彼等の「公共」観がぶつかりあい、闘争・妥協・和解・止揚をくり返しながら、社会としての「公共性」が形成されていく。防災分野における公共性生成過程のウィットネスとして自らを位置づけたときに、自分に架せられるすべての業務や研究が深い意味をもっているように思われたのである。
奇しくも、19期の桑山先輩が、閉会の挨拶で語られた話は私のこうした感覚に近いものであった。彼女は民間企業の人事部に勤務しており、企業としての収益やコストを大前提として仕事をしなければならないけれども、障害者雇用の問題や、ニートの問題など、民間企業として立ち向かわなければならない公共的な問題も山積しており、一社会人としてその狭間で思い悩む日々であるという。そしてそれは、彼女が今村ゼミ在籍中に先生が提起された「Public SchoolのPublicとはどういう意味だ」という問題の解答を今なお求め続けているということでもあるのだ。結局のところ、別の先輩がおっしゃった「今村ゼミは(我々の人生の)原点」という表現は私にとっても全く正しい。決してただの通過点ではなく、今でも自分の問題意識の根本を形成する原点だったのだ。
33期生の入ゼミ試験のレポート課題は「私にとっての公共」だったという。この文章を提出したら、私は合格できるだろうか?
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20期の同期生と2次会会場にて(実はこの会場、現役生の打ち上げにも利用されて先生と再度顔を合わせることに、、、)。
その他の写真 写真1 写真2
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Jan. 2004 |
包括的地震防災基金の創設を (朝日新聞「私の視点」) |
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現在我が国は地震の活動期に入ったと言われる。今年だけでも震度6強を観測する地震が3回も発生した。さらに近い将来、東海・東南海・南海地震などの発生も確実視されている。地震防災対策は我が国における最重要課題の一つであると言えよう。
その対策の柱の一つは、住宅の耐震化である。阪神・淡路大震災で亡くなった方々の8割以上が、家屋の倒壊によるものであった。このため住宅を耐震化することは、「地震防災の特効薬」として語られることも少なくない。
しかし、耐震化は期待されるほど進んでいない。その原因は様々あるが、やはり費用の問題が大きい。木造住宅一棟を耐震化するためには平均110万円必要だと言われており、ほとんどの国民にとって手軽に取り組める金額ではない。20〜30万円程度の公的助成を行う自治体も現れてきたが、耐震化が必要な家屋は全国で1300万棟もある。公的助成に頼って耐震化を進めることは財政的に全く現実的ではない。
一方で、明日にでも巨大地震が発生して多くの住宅が倒壊した場合、これらの再建をどう支援するのか。万が一の場合の住宅再建支援も阪神・淡路大震災以降認識された重要な課題であり、耐震化が遅々として進まない現状において、その重要性はいまだ失われていない。しかし事後的に住宅被害が補償されるなら、耐震化にわざわざお金を使う人はいなくなってしまうという指摘がある。このため住宅再建支援制度の創設には懐疑的な立場も少なくない。「被災者に優しい社会」を目指せば、「災害に強い社会」が実現できないというわけである。
しかしながら、これら二つの政策課題を二者択一として考えるべきではない。それどころか、両方を組み合わせることによってより強力に我が国の地震防災を進展させることが可能なのである。それを可能とする包括的地震防災基金の創設を提案したい。
この基金には我が国の全世帯が加入し、毎月500円を支払うものとする。そして災害により住宅が全壊した場合、一世帯あたり500万円が支給される。ここまでは普通の共済と同じである。しかし提案制度では、平時に積み立てられた基金の一部を使って、耐震化を希望する世帯に全額補助を行うのである。耐震化が進めば倒壊家屋は少なくなることが期待されるから、基金に資金的余裕が生まれ、さらなる耐震化資金として利用可能となる。
こうした資金循環は地震に強い家を増やす原動力となり得る。筆者らが行ったシミュレーションによれば、50年間でおよそ550万棟の住宅が計算上耐震化されることがわかり十分検討に値する制度であることが示されている。一方ですべての世帯について災害リスクが一定量保障されるために、巨大災害発生時において被災者の生活再建も容易となることが期待される。まさに一挙両得ではないか。
かように「災害に強い社会」と「被災者に優しい社会」は両立可能である。そしてそのためには多数の国民による相互扶助が不可欠である。阪神・淡路大震災の被災地を復興へと導いたのは義援金やボランティアに代表される人と人との支え合いだった。提案制度はその精神を地震の前から具体化しようというものなのである。 |
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2003年 |
「被災地より」 |
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被災企業のおよそ4分の3は震災前より売上高が減少し、そのおよそ半分がいまだに震災の影響を受けている――(財)阪神・淡路産業復興推進機構が昨年末行ったアンケート調査ではこういった被災地の姿が浮き彫りになった。
重要なことは、これは「借入金の負担」といった震災に直接起因するものよりも、むしろ「顧客の喪失」「人口・事業所数の減少」「来訪者の減少」といった、都市機能の低下によるものが圧倒的に多いということである。被災地の人口は震災前の水準に回復したが、それは単に被災地がベッドタウン化しただけだとの見方がこちらでは支配的である。
復興初期の段階から被災地では、「都市経済の復興には集客の起爆剤が必要だ」と、規制緩和や免税特区の創設などを訴えてきた。残念ながらこれは被災地の「地域エゴ」と取られた向きがあったように思う。しかし今日の現状をみれば、その主張は決して間違っていなかった。店舗や生産設備が再建されれば経済復興が成るのではない。必要だったのは、新たな財やサービス、情報、トレンドが絶えず生産され、それが多くの人々を引きつけ新たな創造を生む「場」としての都市の再生なのである。
むろん経済復興に失敗したと言うつもりはない。しかし、重要な教訓として語り継がれる必要はあるだろう。あの主張が「地域エゴ」ではなかったというためにも。
(産経新聞「被災地より」 2003年○月×日) |
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Mar. 2001 |
「途上国」タイでの子育て (OSIPPリレーコラム) |
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昨年10月末から5ヶ月間、タイで在外研究の機会を得た。我が家の事情を知る人からは「子供が生まれたばかりなのに大変だね」と言ってもらったのだが、実はあえてこの時期の渡航を希望していたのだ。というのも妻はフルタイムの仕事を持っているのだが、この時期なら育児休暇中なので家族そろってタイで過ごすことができるからである。しかしそれを聞くと逆に顔をしかめる人も少なくなかった。医療水準が低いとか、治安が良くないとか云々、結局のところ、タイは途上国だから、まだ首も据わらぬ赤ん坊を連れてゆくのは危険だというのである。
確かに子供の安全を考えれば無謀な行為かもしれないと思った。しかし単身赴任という選択肢は全く頭にはなかった。とにかく一緒に生活し、育児に参加することが親としての何よりの責任だと思ったのである。妻にも異論は無かった。周りを説得する言葉は「タイでも同じ人間が暮らしているのだから――」といった気休め程度でしかなかったけれども、とにかく家族揃ってタイで暮らすことを決めた。そして私が単身渡航してからおよそ1ヶ月後、やっと5ヶ月になったばかりの息子を連れて妻はタイにやってきた。
結論から言えば、タイでの滞在中最も元気だったのは彼であった。私も妻も一度病院の世話になったが、彼は全く病気をせずに済んだ。後から考えればこれは幸運だったというべきだろう。しかし、住居の近くには大学病院もあり近代的な私立病院もあったので、いつしか病気についての心配は心の中から消え去っていた。
むしろ彼の存在はタイでの生活をより豊かなものにした。私は職場でなかなか同僚と打ち解けることもできず、彼らとのプライベートな付き合いは当初全くといっていいほどなかった。しかし息子がやってきてから状況は大きく変化する。一度子連れでオフィスを訪れてから、ホームパーティーなどに誘われる機会が増えたのである。単に招かれるきっかけとなっただけではなくて、パーティーでも彼の役割は重要だった。相手の英語が聞き取れず会話に困っても、彼が声をあげて笑えばすべてが解決する。われわれ夫婦にとって彼は偉大な外交官であった。
われわれの住居はバンコク郊外の団地に位置するため、歩いていける範囲にはコンビニとレストランが数件ある程度。短期間の滞在なのでテレビも購入しなかった。私はともかく、平日の昼間を妻はどうやって過ごすのか大変心配だった。タイには日本人コミュニティーが多数存在すると聞いていたが、どうやらそれはバンコク市内だけの話だったようだ。隣のオフィスに勤務する日本人男性から聞いたところによると、彼はかつてこの団地に奥さんと二人で住んでいたそうだが、あまりに退屈なためバンコク市内に引っ越したのだという。そして彼らがここに住んでいた最後の日本人だったのだ。
しかしこの問題も息子の存在によって解決された。彼をつれて散歩すればだれかが必ず微笑みかけ、手を振る。ときには立ち止まって話し掛ける。孤独になっている暇はない。息子はキスをされたり、抱きかかえられしばらく連れ去られることも珍しいことではなかった。しかもそれらの行為は全く断りなく行われる。当初は私も家内もびっくりしたし、誘拐されるのではとすら思った。しかし次第にそれはタイ人の国民性によるものだということが判ってきたのである。
彼らは根っからの子供好きである。独身男性ですら赤ん坊を見て話し掛ける国というのはそう多くあるまい。そして彼らは他人の子も我が子と同等に扱う。買い物に行っても店員が子供を抱いて面倒をみてくれる。夫婦揃ってタイ式マッサージを受けるときも、その間店員が当たり前のように子供を預かってくれる。混雑するレストランにベビーカーで入店しても嫌な顔一つせず、むしろ歓迎してくれる。それは店員だけではなくて、隣に座った客ですらそうである。したがってタイでの子育ては他人に気兼ねすることがない。その意味で大変楽であった。もちろん日本と違ってオムツの交換台や授乳室などが街中に整備されているというわけではない。しかしレストランでオムツを交換しても文句を言われることはない国にとってそれは些細な問題にすぎなかった。
正式な統計を見たわけではないが、タイでは多くの女性が出産後も働いている印象を受けた。ところが話を聞くとタイでは日本のような育児休業制度はないという。日本でいうところの産休、つまり産前産後の3ヶ月のみ法的に保証されているに過ぎないそうである。従って、生後まもなく子供たちは誰かに預けられることになる。それは祖父母であったり、保育所であったり、コミュニティーであったりするそうだが、こうしたシステムが機能しているというのはタイ国民が子供好きであるということと決して無縁ではないだろう。
家族が揃ってからわずか2ヶ月後、妻と息子は先に日本に帰国することになった。その理由は、息子の保育園入所のために面接を受ける必要があったからである。海外で生活していることを理由になんとか免除あるいは延期してもらえないかと妻と話していたのだが、すでに我々が居住する大阪市では定員をはるかに超える入所希望があるとのこと。この入所機会を逃すと、妻は職場への復帰が出来ない。タイでの子育てを満喫していた私たちは一気に現実に引き戻されたような気がした。日本では子供を預かってもらうために頭を下げなければならないのである。「せめて誠意を見せないと」という言葉を残し、妻はわずか数十分の面接のために息子を連れ日本へと旅立ったのである。
そのようなわけで、私たち家族は望んでいたほど長く一緒に生活できたわけではなかった。しかしその理由はタイの医療水準の問題でも治安の問題でもなく、ましてやタイが途上国だからでもなく、単に先進国日本の問題だったのである。
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